天城越え
上陸したペリー一行の応接所となり、ペリーとの和親条約付録下田条約がここ了仙寺で締結されました。それにより、米人の休憩所とされました。
ペリーに渡航を拒否された吉田松陰は奉行所に自首し、ここ宝光院長命寺(廃寺)に移されました。
吉田松陰の下田に滞在した期間は僅か24日という短いものでした。
勝海舟と土佐藩の城主、山内容堂がこの宝福寺で会談し、坂本龍馬は脱藩の許しを得たと言われています。
お吉は芸妓で将来を誓った鶴松が居たのですが幕府の要請によりハリスの待妾となりました。世間はお吉に冷たく、お吉は待妾をやめて横浜に流れ、後に下田に戻ってきました。その後、鶴松と同棲するのですが旨くゆかず、次に小料理屋を始めたのですがこれは倒産。最後は酒に溺れ、世をはかなんで下田川に身投げしました。その遺体を誰も引き取らなかったのでこの宝福寺が引き取り埋葬した....と言われています。
時代に流されてしまったお吉。さぞ無念だっただろう。現代なら誰も羨む大出世だったのだが、時代とはそういうものなんだな....。
山内容堂と勝海舟謁見の際に使用された杯 |
息子と一緒にサイクリングをする予定でしたが、彼が体調不良のため私だけが修善寺から下田まで自転車で走り、息子は車を利用することにしました。これは良い判断でした。下調べでは、修善寺から下田までのルートはそれほど斜度はないと侮っていたのですが、斜度はソコソコありますし、加えて長い、長い登りはかなり辛いものがあります。僅か45kmほどの距離ではありますが、体調不良で強行していたらどういう事態になっていたか分かりません。
天候に恵まれ、目的の「旧天城トンネル」と「河津桜」を見て回ることができました。まだ脚に若干の痛みが残っていますが、大満足の旅でした。反省すべきは、忘れ物が多く準備が不十分だったことですね。